TeddyBearはこうして生まれた…
『TeddyBearっていったいどこの国のものなの?』


TeddyBearファンのあいだではその発祥地をめぐって、アメリカ説ドイツ説が飛び交っています。しかし、どちらの説をとるにせよ、TeddyBearが生まれたのは、1903年前後であることは間違いありません。

まず、第一の舞台はドイツのキンゲンという小さな街です。そこに住むマーガレーテ・シュタイフは、ポリオにかかり、車椅子生活をしていましたが、手先が器用だったことから、仕立て屋として生計をたてていました。彼女は自分で使うために作ったピンクッションが近所で評判だったのをきっかけに、5人の甥とぬいぐるみ作りの事業をはじめます。
あるとき彫刻家だった1人の甥 リヒャルトは、動物園だ見たクマにひらめきを感じ、本物のように手・足・首の動くクマをマルガレーテに提案したのです。
そして1903年、タイプツィヒで開催された商品見本市に、シュタイフ社はジョイントで動くクマのぬいぐるみを出展したのです。この時はもちろん“TeddyBear”という名前はついていなかったので,人々は”FriendsPetz”(クマちゃんという意味で…)と呼びました。最初は誰にも注目されませんでしたが、最終日にアメリカのバイヤーから、3000体もの注文が来ました。

こうして海を渡ったクマのぬいぐるみは、爆発的な人気を呼び、シュタイフ社は四年間に100万体ものTeddyBearを生産することとなりました。
クマのぬいぐるみがこのように爆発的な人気となると、盗作が出回るようになり、そのほとんどは粗悪品だったため、マルガレーテは商標の保護を申し出ました。しかし一向に効果は上がりません。このことは品質の維持をモットーとするシュタイフ社は頭を悩ませていましたが、1904年甥のフランツがシュタイフの製品の左耳にボタンを取り付けるというアイデアを思い付きます。これが有名な「ボタン・イン・イヤー」(シュタイフ社の商標)が誕生したいきさつです。このボタンには最高級品質の証、シュタイフ社の魂が込められているのです。


ここからは第2の舞台アメリカです。Teddyというのは、アメリカの第26代大統領セオドラ・ルーズベルトの愛称であることはよく知られています。彼は1901〜1909年在職し、ノーベル平和賞を受賞している、人気の高い大統領でもあります。そして、大統領とクマが結びついた背景には、こんなエピソードがあるのです。 (耳にタコができるぐらい聞いた、例のお話です…。)


1902年。大統領は境界線を引く話し合いのためにミシシッピー州に来ていました。狩猟好きの大統領はグリズリー・ベアのハンティングをしていましたが、運悪く、獲物は1頭も仕留めることが出来ませんでした。そこでお供の人が気を聞かせて、子グマ(歳をとったクマという説もある。)を木にくくりつけて、『さぁ子のクマを撃ってください』と差し出しました。しかし大統領はそんなスポーツマンシップを汚すようなことは出来ないときっぱりと断り、クマを逃がしてやったといわれています。


このお話を聞いたクリフォード・ベリーマンはワシントン・スター紙にひとコマ漫画を描きました。この下には“Drawing the line in mississippi”とキャプションがついています。このDrawには、“境界線を引く”と“クマを撃つことを断る”という二重の意味がかけられているのです。
では、クマのぬいぐるみに“TeddyBear”と名付けたのは誰でしょう?それは、ニューヨークのおもちゃ屋さん ミットム夫妻です。彼らは、“TeddyBear”と名付けていいか大統領に手紙を送り、喜んで承諾するという手紙をもらったそうですが、肝心の手紙が残っておらず、このエピソードの真偽は定かではありません。

またこんな話もあります。
狩猟が好きだった大26代大統領セオドア・ルーズベルトの夕食会のテーブルで、何か演出をしようと考え出されたのが、熊好きにちなんでテーブルに熊のぬいぐるみを置こうというアイデアでした。それを見た大統領が言いました。 「私は熊には詳しいがこの熊の種類は知らないな。」 すると列席者の一人が「テディのベアさ」(テディとはセオドアの愛称) と言い、拍手喝采が起ったそうです。 もちろんテーブルの上に乗っていたのはシュタイフ社製の熊のぬいぐるみでした。


こういうわけで、TeddyBearが誕生したのは、1903年ということになります。






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